東北関東大震災

何を書けばいいのか 悩んでしまいます。
自分のまわりは特に被害はないのですが、岩手県宮城県
物凄いことになっていて・・・・・・・

地震のあった11日(金)はフォークダンスの例会の日でしたが、休んで
弘前へお見舞いに行き その帰途で地震のあったことを知りました。

みちのく有料道路を通り みちのくトンネル(3キロ以上ある長いトンネル)に
入ったら いつもは明るいトンネルが暗い。
関係会社らしい車が停めてあって 一人の男性が点検しているようでした。
そのうち 少しずつ照明が点いて明るくなりましたが、あれは地震のせいで消えていたのでしょう。ラジオをつけたらかなり大きな地震があったことを報じていました。


途中の東北町では信号は止まっているし コンビニは電気が消えて真っ暗でした。

民生委員は震度4以上の時は 一人暮らしの高齢者の安全を確認することになっている
いるので 家に行く前に一人暮らしの方のお宅に寄ってみました。
鍵がかかっていて 近所に集まっていた人たちは 誰か(息子さんでも)連れていったの
ではないか ということでした。
もう一人の一人暮らしの方は そう言った人たちと一緒にいたので 無事を確認でき、
そのことを会長に連絡しましたが 携帯に出ませんでした。
もう その時点で 携帯は通じなくなっていました。

さて 家に着いたら 停電。

暖房はつかないし 調理器はIH電磁調理器だから使えない、幸い水は出ているので
カセットコンロを出してそれでお湯を沸かしたり ちょっとした煮炊きはできる。

急なことなので 頭がまわらず 取りあえずカップラーメンにお湯を注いで
主食に。

あとは貰ってきたやりいかで刺身を作り、残りを煮てえのき茸やゆき菜を混ぜ 
その日の夕食とすることにしました。

外にいるときと同じく 毛糸の帽子をかぶり 犬の散歩用のアノラックをきてストール
を巻き 風呂上りにパジャマの上にはくロングスカートをはき それでも寒かったら
使い捨てカイロを貼ろう と思ったけど 大丈夫でした。

ろうそくを立て 懐中電灯を出し、照明はそれでOK。

あとで聞いたら ご近所さんで ろうそくがなくて買に行ったけど もうどこにも
なかったとか。

ろうそくの明かりじゃ 何もできないし 寒いから と7時前に早々に寝ることに
しました。
寝ても しょっちゅう余震がくるので そのたびに懐中電灯をつけて 逃げる態勢。
でも 震度5でも壊れない家だから これくらいじゃ大丈夫だよ ということで
寝ていることにしました。

ゆりかごに寝ていると思えばいいよ という山さん。
でもなあ。

*12日(土)
本当はこの日は町内のそばうちの日でした。
そばを打ってくれる人はお隣のご主人なので 一応中止だとは思うけど
聞きにいきました。
そしたら 奥さんが集会所に避難している人たちに食事の世話をしに行っている
と聞き、それじゃ私も行かなくちゃと でかけました。

前日から 町内会の会長さん一家や役員さんのご一家が2組とその他にも 海に
近い家の人たちが避難していました。
話によると 玄関先まで海水が行った というお宅があったとか。

うちは 国道より山側にあるので 余程でないと津波は来ないだろう と思うの
ですが、今回津波に襲われた岩手県宮城県の市や町は 3キロも波が押し寄せた
というから 海から1キロもない我が家も そんなに強い津波だったら 危ない
ということが 言えます。

警報や避難勧告などに注意する必要があるようです。

昼食の準備を手伝い、夕食まで時間があったので 一旦帰宅。
夕食の準備を手伝い、私は帰りましたが 役員さんの奥さんや子供さんは泊まって
皆さんのお世話をしているみたいでした。

12日の夜中 12時近くになって 停電が復旧し、我が家も翌朝から暖房が使えるように
なりました。


*13日(日)
余震も大分弱まっているようだったし もう避難はしなくてもいいのでは と 
手伝いに行かないでいたら、交通安全母の会で集会所の掃除と後片付けをする 
という連絡が入り やっぱり 出ていきました。

片付けが終わり 母の会の人たちは帰ったけど、避難して残っている人たちに
昼食を出す ということになり 残ってお手伝い。


実は私は知らないでいましたが、隣の町内会(六川目)では 津波の被害を被った
世帯があり、うちの町内会の役員たちがお手伝いに行っている ということでした。

聞いたら 山さんの同級生の家でした。
帰って そのことを教えたら、さっそく山さんが行ってきました。

もう 住める状態じゃないとのこと。
本当に お気の毒です。
お姉さんのうちに泊めてもらっているそうです。
ちょっとしか離れていないのに そんな被害を被るとは。

11日 12日は携帯電話もメールも届かず、でも 長女やそのだんなさんからは
運よく 無事との連絡がはいりました。

停電もいつまで続くかわからないので 充電できなくなれが困ると思い、携帯の電源を
切って 時々つけてはみていましたが、その時はきていなかったメールが 13日
になって たて続けに入ってきました。

しかし 返事を返しても 「送信できませんでした」 という表示が出て なかなか
連絡もうまくいきませんでした。

たくさんの友達 知り合いの方からお見舞いのメールやお電話をいただき、感謝しています

非常時に備えて 何が必要か いい勉強になりました。
飲み水は 2リットルのペットボトルを6本確保していましたが、使い捨てカイロや
湯たんぽ 反射式ストーブなども必要だと思いました。

また 食糧としては 乾パンやカップめん レトルトのご飯類 も準備しておいた方が
いいと思いました。

カセットコンロも 新しいのをもう一つ 買った方がよさそうです。

テレビでは終日 目を覆いたくなるようなひどい状態が報道されています。
三沢では 漁港の周りが壊滅状態とのことです。

知り合いの方は気仙沼出身で 実家のお母さんと連絡が取れない と心配していたし、
久慈の友達は 釜石にいる息子さんと連絡が取れないので 明日車で行ってみる
と言っていました。
無事を祈るばかりです。



11日に帰宅したら
朝 洗った食器類がかごごと流しに滑り落ちていました
でも 壊れたものはありませんでした



雛壇の左大臣は傾き 右大臣は向きを変え、
三人官女の間のお餅がのったたかつきは倒れていました